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事件が近くで起きたときに“想像で暴走する市民劇場”

🧠「“それっぽい共感”が、誰かを追い詰めてる」

――事件が起きたとき、“語りたい自分”が先に立ってないか?

事件が起きたとき、SNSにはたくさんの声があふれる。
悲しみ、怒り、不安、そして…“それっぽい”共感の言葉たち。

ある日、自分の暮らす街の近くで、重たい事件が起きた。
するとSNSのタイムラインが一気に“市民評論家”モードに切り替わる。

まるでみんなが「語らなきゃいけない」という義務を背負ってるみたいに。

www3.nhk.or.jp

たとえば、こんな声が並ぶ。

「まさか、こんなに近くで起きるとは…やっぱり他人事じゃないなと思いました」
「こういう悲劇は家族の無理解や、社会の冷たさが背景にあると思う」
「近くに相談できる大人がいなかったのが残念」
「改めて思うけど、命の重みや人としての知識って教育の中で必要だよね」
「“母親”っていう言葉自体が、どこかで人を追い詰めてる気がする」
「SNSの繋がりだけじゃ、本当に助けは届かないのかもしれませんね」

いや…気持ちはわかる。
本気でそう思ってる人もたくさんいると思う。
でも、ここで一歩、踏みとどまって考えてほしい。

🧠 なぜ人は“勝手にストーリー”を語りたがるのか

人間は「理解できないこと」に直面したとき、めちゃくちゃ不安になる。
だから、“自分が理解できる形”に変換して安心したいんだよね。

「きっと〇〇だったんだと思う」
「こんな背景があったに違いない」

……これはつまり、“安心のための物語作り”や。

でもその想像、被害者や加害者本人にとっては、
「勝手に語られて勝手に消費される人生」でしかない。

もうひとつ大きいのは、“共感の見せびらかし文化”。

SNS時代って、感情を「表現」じゃなくて「見せる」ものにしてしまった。

「悲しめてる私」
「考えてあげられる私」
「正義を語れる私」

つまり、“事件そのもの”じゃなくて、
「事件に反応する自分」を演出する場になってるわけ。

💣 なぜこの考え方・発信が社会にとって危険なのか

① 想像による“二次加害”が起きる

実際の事実もわからない段階で、
「親が悪い」「男が逃げた」「家族が気づかなかった」なんて、
ただの妄想で誰かを断罪してるんだよ。

これ、“正義っぽい言葉”で包んだ攻撃なの。
一番悪質なのは、「自分は善人の立場」って思いながら、人を傷つけてること。

② 社会全体の“思考力”が劣化する

パッと出た感情にパッと反応して、
テンプレのような言葉で「それっぽい共感」を並べてしまうことで、

「思考の浅い正義」が量産される。

考えない社会って、「都合のいい感情」だけで人が動く社会。
それ、ポピュリズムや差別が加速する地獄への入口やで。

③ “本当の問題”が見えなくなる

勝手に「家庭が原因!」「社会が悪い!」とストーリーを決め打ちすると、
本来の課題がどこにあるのかが、逆にぼやける。

結果として、「語って終わり」「考えた気になって満足」になってしまう。
つまり、何も変わらない社会ができあがる。

🧠専務流まとめ

想像は優しさの入り口だけど、
勝手な物語は、ただの暴力になる。

事件が起きたときに大切なのは、
「語る自分をつくること」じゃなくて、
「語らない自分を保てること」だったりする。

思考停止の共感は、社会の空気をぬるま湯にする。
そしてそのぬるま湯の中で、また誰かが静かに沈んでいく。

🎤 最後に、専務から一言。

語るってことは、責任があるってこと。

「分かったつもり」で言葉を放つ前に、
その言葉が誰を救い、誰を傷つけるのかを、
一瞬だけでも考える余白を持とう。

それが、“共感ゾンビ”にならずに生きる道や。