知っているようで知らなかった「菅平の鉱害問題」
たまたま見つけたブログ
四阿山に鉱山跡があるのは知ってたけど
終戦直後の昭和20年代初めは逼迫した食糧需要をまかなうための、農産物の大増産が重要な政策課題でした。そして、硫黄も肥料(硫安)の原料として、生産増加が求められていた。
硫黄が必要だったのね。
そんな社会情勢の中、東京の永六産業㈱がこの地の鉱業権を獲得し、試掘を始めたのが昭和26年の5月、そして、いよいよ本採掘!という時、立ちはだかったのが地元住民による激烈な反対運動。
反対運動
北信鉱山は菅平十の原地区の大明神沢上流に位置していました。
大明神沢は菅平川を経て千曲川支流の神川に流れ込みます。そして、神川は古くから沿岸の人々の生活用水として、また、農業用水として利用されてきました。
北信鉱山が試掘を始めた昭和26年には上高井地方の鉱害のことが広く知られており、神川沿岸住民の反対運動につながりました。
影響はあったらしい
試掘開始した1年後の水質検査(昭和27年9月)では大明神沢の水はpH4.0から4.5程度の酸性水であることがわかりました。
鉱山反対派は酸性化の原因は鉱山の試掘開始によるものと主張し、一方、鉱山側は上流に存在する硫黄の自然露頭によるものと反論。
こちらの記事(4頁)より
http://www.azarean.jp/file/20111115kawaraban.pdf
1. 硫黄公害は、農作物を栽培する農家の死活問題
2. 神川水系の漁業の問題
3. 神川水系 10 万住民の飲用水による 10 万人の死活問題
4. 自然破壊の問題等により、昭和 27 年 6 月、長村外1市9町村長が参集し、鉱毒被害対策を協議し、直ちに委員会を結成し、採掘絶対反対の烽火を上げる。
委員会のよる陳情数十回、各地域決起大会も数回、大決起大会は長小学校で開催され(ムシロ旗)を先頭に大反対運動を展開された。
昭和 28 年 7 月、第 16 回通常国会衆議院農村委員会に採択され、鉱区禁止地域に指定され、この問題は2年で解結した。
現在は山紫水明の郷土が保護され、清流豊かな神川の水で、何十万の住民が生活している。
【議事録】
第016回国会 農林委員会 第12号
昭和二十八年七月一日(水曜日)
議事録を読み返したら...
な、なんと
当時の農林委員会の委員長は
井出一太郎 大先生
本日、予算委員会に立った、井出ようせい代議士の
じいちゃんだった!笑
試掘開始からわずか2年でその役目を終えた北信鉱山・・・・。
その存在は歴史の闇に消えつつあります。
ただ、60年前、神川流域の先達が地域を鉱害から守るために闘ってくれたこと・・・・そのことだけは忘れてはいけません。
ほんまその通りや。
忘れてはいけません。
m(_ _)m
先達への感謝を胸に、冬にむかいたいと思います❤
では👋